1.おはようおはよう、そんな一言の挨拶。小学校の頃、「あいさつ運動」というものがあった。 「何人の人に挨拶できましたか?」 挨拶できた人数により マークをつける表までも 丁寧に用意されていた。 元来、僕は極度の面倒くさがりである。 怒られるのが面倒くさいから、一度で済ませるように、求められることはきちんとする。それが信条だった。 しかし、その挨拶の表ときたら、なんと5つのランクに分けられている。 1~5 5~10 10~20 20~50 50~ 一クラス全員に挨拶して、41人。 50人に挨拶って、何を考えているんだろうか。 絶対できない。 そっか、先生に挨拶しろってことなんだ。 そう思った面倒くさがりの僕は、嫌がる友達を引きずって翌日の朝から学校の職員玄関に立ってみた。 児童用の入り口はその脇にある。他の顔見知りにも挨拶できるし、先生も絶対にやってくる。ばっちりだ。 「おはようございます。」 義務感だけでする挨拶。先生たちはよく分かっていたらしく、苦笑いをしていた。 それでも人数にカウントは出来る。僕の表は、最高人数を連日マークすることになった。 しばらくは得意満面になっていた僕だったが、この人数ゲットのテクを真似ようと職員玄関に立ち始める輩が翌週から増えていった。 その上、苦笑いしていた先生たちが、なんだか違う顔つきになってきた。 不快感を持ち始めた僕は、味をしめた友達が止めるのも聞かず、職員玄関に立つのをやめた。 その後「あいさつ運動」がどうなったのかは、不思議なことにまったく覚えていない。 「人にほめられるための」挨拶に嫌気がさして、多分記憶から消去しているんだと勝手に思っている。 その後、紆余曲折あって、大学に入った。 哲学にちょっと惹かれていたところがあった僕は、朝1時限からあることで人気低迷中という西洋哲学の授業を受講していた。 だだっ広い講義室にぽつりぽつりと座っている学生。 こけた頬で眼鏡をかけていたずいぶんと神経質そうな教授に、決して自分から話しかけようとは思わなかった。特に決まった連れもいない僕は、一人始発の座れるバスに乗り、講義の始まる1時間も前から講義室に入り本を読み、意外に分かりやすい講義を受けるだけは受けて、程なく次の講義室へと移動していくのを朝の日常にしていた。しかし、このとっつきにくそうな教授は、講義のあと、必ず学生に囲まれていた。 そして半年たって、学期最後の講義、最後の挨拶。 「皆さんに半年間 哲学について話してきましたが、私は人の価値は能力や知識や肩書きではないと思っています。ここは大学ですから、教授・助教授といった方はたくさんいますが、そういった階層の人間だからこそ、価値があるとは思わないのです。 皆さんの使った机は、だれが掃除していますか。皆さんが朝この部屋に入る前に、用務員の方々が掃除しているのです。そういった方々に挨拶する教授がいったいどれだけいるのでしょうか。私の知る限りいません。そこに、その人の本質が現れていると思っています。」 怒りと悲しみのこめられた声だった。 いろいろと差別を受けなければならないことがあった教授だったとは 後で知った。 朝いつも見かけていた掃除のおばちゃん。 僕が本を読んでいるのを気遣ってくれて、それに遅まきながら気がついた僕は、掃除の時間、講義室から出るようにしていた。 その講義の後、掃除しているおばちゃんを見かけ、挨拶してみた。 驚きに目を丸くした後、破顔して、返してくれた。 「おはよう、学生さん」 |